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自己紹介

はじめまして、やんやんと申します。
僕は1996年生まれの男性です。
僕の生い立ちやここまでの経歴などを簡単にご紹介しておきたいと思います。
僕の人生において、人間関係というのは非常にドラマチックでした。
ですので、僕が経験した人間関係のトラブルなどをお話し、どのような経験を踏まえて記事を執筆しているのかを知っておいていただければと思います。

仮面ライダー555がきっかけで仮面ライダーファンに

僕が今後書いていく記事とはあまり関係性はないかもしれませんが、僕は仮面ライダーが大好きです。
そのきっかけは、小学校入学当時に見ていた「仮面ライダー555」です。
人間とオルフェノク(人間の進化生命体)の戦いや葛藤を描いた、子どもに見せるにはあまりにもダークな作品です。
当時の僕が心惹かれたのは、おそらくデザイン面だと思いますが、とにかく大好きな作品です。
彼らの怒りや悲しみ、葛藤などが、のちの僕の人格形成に大きく影響している思います。


一般的に仮面ライダーやスーパー戦隊などの特撮作品を大人になっても観ていると、どうにも「ヤバイヤツ」のような目で見られがちです。
小学校中学年の頃からこのような目で見られ始め、次第に特撮作品からは遠のいていっていました。
ある時からまた仮面ライダーを見始めたのですが、そのときには一緒に作品について語ることのできる仲間もいて、自分の好きなものは堂々と好きと言えばいいんだと思うようになりました。

自分の好きなことを隠していきていくよりも、自分をさらけ出せる人と付き合うことのできる環境を築けたのが僕の人生にとって大きな影響を与えています。

友達に誘われてサッカーを始める

これが僕の人生を大きく変えるターニングポイントの一つになったと思います。
小学2年生のとき、友達に誘われてサッカーチームに入りました。
そこには僕が通っていた小学校以外からも参加者がいて、田舎で人と関わる機会が少なく生きてきた僕にとっては、新しい出会いというのは非常に刺激的でした。
しばらくは一生懸命サッカーに打ち込み、上達に精を出していました。
この当時は他に水泳もやっており、週1日はサッカーチームでの練習、週2日は水泳、空いた日は友達とサッカーの練習をしたりとなかなか忙しい日々を送っていました。

まあ小学生にとってはよくある日常ですが、とても楽しかったのを記憶しています。
それがある日を境に地獄に変わります。

僕が所属していたサッカーチームには、同じ小学校の友だちが多かったのですが、いつの頃からか、僕に対する接し方が変わってきたのです。
態度が冷たかったり、どこかからかうような、バカにしたような言動が増えてきたのです。
誰かが言い始めたそれはどんどんエスカレートしていき、僕はサッカーチームでも学校でも居場所がなくなりつつありました。
いわゆる「いじめ」が始まった理由は2つありました。

1つは、僕がサッカーが下手くそだったということ。
周りのみんなはどんどん上達していくのに対し、僕はサッカーの細かいルールを覚えるのは苦手で、テクニックや体力も同い年の友達よりもずっと劣っていたのです。
小さい頃はがむしゃらでなんとかなっていたサッカーですが、次第にみんなテクニックや知識を身につけ始め、僕のプレーが邪魔に感じるようになっていったのです。

2つ目は、僕がある病気を持っていたことです。
漏斗胸というこの病気は、胸のあたりが凹んでしまう病気です。
僕の場合はほぼ見た目だけの問題でしたので、生活への影響はほとんどありませんでした。
しかし、この「見た目」というのが問題でした。
子どもにとって、一人だけ変な見た目のやつがいるというのは大きな事件です。
周りのみんなは普通なのに、一人だけ変なやつがいる。
こんな存在を子どもがターゲットにしないはずがありません。

ちょっとからかうだけだったものが、だんだんと暴言に変わり、果ては殴られたり蹴られたりするようになっていきました。
そんな状態が暫く続き、僕はサッカーチームを止めました。
止めても学校に行けばいじめてくる友達はいっぱいいます。
なんなら学校のほうが敵が多いぐらいです。
直接攻撃してくる者、面白がって見ている者、見て見ぬふりをする者など様々です。

ある日学校に行くのは止めました。
行っても楽しくなかったので。
そしてしばらく引きこもりました。
家に担任の先生も来ましたが、きれいごとは頭の中に入ってきませんでした。
親はそんな状況を知ってはいますが、学校に行かせようとしてきます。
仕方なく学校に行く日もありましたが、苦痛でしかありませんでした。

僕にとってのヒーローが現れた

ある日ヒーローが現れました。
といっても、突然どこかからやってきたわけではありません。
同じクラスの男の子でした。
その子は顔がかっこよく、そこそこに頭もいい、面白いことも言えるし運動もできる。
小学生がモテる要素をすべて持っているような子でした。
その子はいじめには加担していませんでした。
かといって見て見ぬふりだったかというと、それも微妙に違うような。

その子をK君としましょう。
K君は、いじめをやめろとか言ってくれたわけではありませんでした。

ただ、僕に向かって、「一緒に遊ぼう」と言ってくれたのです。
僕はその当時もう一緒に遊ぶ友達はいませんでした。
ですので、遊ぼう、と声をかけてくれたことが何より嬉しかった。

そこから、だんだんといじめはなくなっていきました。
次第に遊ぶ友達も増えていきました。
その中には、僕をいじめていたやつもいました。
そんなことあるか!?と思われるかもしれませんが、本当の話です。
でも正直嫌でした。怖かったです。怖かったからこそ嫌とも言えなかった。

K君をきっかけに交流も増え、新しいことにも挑戦し、ある程度の日常を取り戻すことができました。

そのまま中学生になり、普通といえば普通の日常を過ごしました。
でもやはり心に残った傷はそのままになっていました。

高校生でまたひとりぼっちに

中学校を卒業し、高校に進学しました。
高校の偏差値は高くも低くもないところ。(どちらかというと低いか)
その高校を選んだ理由は、僕の地元から進学する人が誰もいなかったから。
中学生時代は特にいじめられることもなく過ごせましたが、人間関係には臆病になっていました。
人と関わるのは怖いし、もう疲れ切っていました。
人の顔色を伺うばかりの日々で、自分に嘘をついてまでへらへらするのが嫌になっていました。
そこで、高校では自分のことを知る人のいないところへ行き、心機一転生活していきたいと思っていました。

高校には無事合格し、何事もなく入学することができました。
そこは男子校だったので、共学よりはストレスも少なく過ごせると考えました。
その結果は的中。
男だらけの環境は快適でした。
しかし入学後、僕は親しい友だちを作ることはできませんでした。
連絡先を交換したり適度に喋ったりはするものの、誰かと一緒に遊びに行ったりということはしませんでした。

なぜか?
人の目が怖いのです。
小学生時代、短い期間とはいえ、いじめを受けて過ごしてきました。
そこで受けた傷は大きく、それ以後人にどう見られているかを気にして生きるようになっていました。
そのため、自分から人に話しかけることや、自分の意見を発することができなくなっていました。
拒否されることが怖かったのです。

そんな状態では友達などできるはずもありません。
僕が通っていた高校ではクラス替えがありませんでした。
正確には、僕が通っていた高校の普通科ではといったところでしょうか。
普通科の中にいくつかコースがあり、希望する生徒が数名コースを入れ替わることがある程度でした。
2年進級時に不幸が起きます。
僕がわずかに仲良くしていた友達2人がそれぞれ違うコースへと移っていったのです。
2年生はじめにして本当に孤立しました。
休み時間にしゃべる相手すら失いました。
この友達2人は相手の方から話しかけくれたため、なんとか仲良くなれた2人でした。
基本的にクラス替えのない環境において、人間関係は出来上がっています。
そんな中に、僕のような臆病な人間が無謀にも突っ込んでいけるはずがありません。
ここでまた絶望タイムが訪れました。

男子校はコミュ障に最適

そんなわけで2年の初っ端から絶望を叩きつけられたわけですが、ここで男子校の凄さを思い知ります。

友達できました。

こんな僕にも友達ができました。
まあ結局は相手の方から話しかけてきてくれたんですが。

なぜこのようなことになったかというと、僕が選択した文系コースに、移動してくる人が数名いたためです。
僕の所属していたコースは上・中・下でいう真ん中のコースで、ここに入ってくる生徒が数名いたのです。
そして、クラス替えこそないものの、文系と理系でそれぞれ分かれて教室を使用するため、人間関係も微妙に変わることとなったのです。

これが共学だったらと思うと恐怖でしかありません。
おそらく共学であれば、文理による多少の人間関係の変化があろうと、新しく人間関係を構築することは難しいはず。
クラス替えがない且つ男子校というフランクさにコミュ障の僕は救われました。

男子校の良いところは気兼ねなく周りと接することができるという点だと思います。
僕のように人の顔色を伺うばかりの人間でも唯一生きていける環境だと思います。

そんなこんなで、残りの高校生活では卒なく過ごすことができ、無事に卒業を迎える事ができました。
高校で仲良くなった友達とは今は連絡を取っていません。
最後に会ったのも、高校卒業後すぐのGWぐらいです。
一生の友だちにはなれませんでしたが、本当にいいやつらでした。
また会う機会があれば彼らとも会いたい。そう思えるまでに僕は前向きになれていました。

大学での出会いが人生を変えた

大学に進学しました。
進学先は実家から通える範囲の大学でした。
家庭のお金の面を心配しつつも、特にやりたいことのなかった僕はなんとなく選んだ私立の大学へ進学します。

入学前になんとなく感じていたのは、なんとなく勉強して、適度にバイトをして、なんとなく就活をして卒業していくんだろうなということです。
この当時の僕は、高校入学時よりも人間関係の構築に前向きになっていたため、部活やサークルに入る気ではいました。
ここに僕の運命の出会いがあるとは全く予想していませんでした。

部活やサークルを見学する上で決めていたことが1つだけあります。
それは、ダンス関係のものには絶対入らないということ。
なぜなら、僕はダンスが大の苦手だったからです。
中学生の時、体育の授業でダンスがありました。
当時やったのはヒップホップやストリート系のものでしたが、リズムが全く取れず、先生には毎回怒られていました。
「踊れないだけでそんなに怒らなくてもいいじゃんか…」
僕はそう思いながらダンスの授業をなんとか乗り越えていました。
ですので、ダンスだけは絶対にやらないと決めて大学へと入学しました。

いざ部活に入ってみると、僕がいたのは競技ダンス部でした。
競技ダンスとは、いわゆる社交ダンスを競技化したものです。
金スマやキンタローさんで有名なあれです。
なぜ僕は嫌いで苦手なダンス部に入ることになったのでしょうか。

やりたくないことや苦手なことから逃げない

おそらく、競技ダンスを見たことがある人はおろか、経験したことがある人はほとんどいないでしょう。
日本の競技人口は世界でも多い部類に入りますが、日本のそれは高齢化が激しいのです。
若い人でやっているのはほとんどが大学生です。
入部当時の僕はそんなこと知りもしませんでした。

さて、本題のなぜダンスを始めたのか?ということですが、大学に入るに当たり、決めていたことが僕の中にはありました。
それは、今ここでしかできないこと・今まで経験したことのないことに挑戦するというものでした。
そして、いじめを受けた経験から、嫌なことがあるとすぐに逃げ出すクセがついている自分を変えたかったのです。
ここまで記載していませんでしたが、僕は中学生時代には剣道部に所属していました。
でも剣道をしていたのは中学3年間だけです。

なぜなら、スポーツ少年団での指導が厳しかったから。
僕が通っていた中学の剣道部では、地域のスポーツ少年団及び地域の剣志会というものに入ることが義務付けられていました。
そんなことも知らずに入部した僕は意味不明な洗礼を浴び、部活以外の練習には顔を出していませんでした。
幸いにも、先輩方は優しかったため、部活以外に顔を出さない僕を咎めたりはしませんでした。
そんなわけで剣道とはそれっきりです。
でも剣道が嫌いなわけではないです。むしろ好きです。
極限まで集中力を高めて相手と、そして自分と向き合う剣道のスタイルは自分に合っていると思います。

話を戻しますが、逃げることに意味はないと僕は感じていました。
逃げることで救われることもあるけど、その先に成長はないと思ったのです。
だから、その時一番やりたくなかったダンスを選びました。
競技ダンスを選んだ理由は、このタイミングで触れなければこの先一生経験することはないと感じたから。
自分と向き合うことと、新しいことに挑戦することを決めた瞬間でした。

まさかのダンスが自分の性に合っていた

僕がダンスをすると決めてあなたはどう思ったでしょうか?
「どうせまた続かないんじゃないの?」とか、
「ダラダラ続けるだけなんじゃない?」といったことではないでしょうか。
実際、あれだけ高らかに宣言していたにも関わらず、嫌だったらすぐに退部しようと考えていました。

僕が入部したのは4月の終わりで、5月半ばに新人戦があるような状況で、そこまでは必死に練習しました。
新人戦では準決勝まで進み、始めたてにしては頑張ったんじゃないか?と思いながら手応えを感じていました。

そして6月には、僕が所属していた部のメンバーだけで行う、部内戦に出場しました。
結果は散々でした。
僕は他のメンバーよりは若干遅く入部したものの、それなりに練習を頑張っているつもりでした。
でも他の部員にまったく歯が立たなかったのです。
このとき一気にテンションが下がりました。
自分にはやっぱりダンスは向いていないんだなと。

そこから僕は度々仮病を使い、部活をサボるようになりました。
夏に行われた合宿も当日にドタキャンし、先輩やOBに迷惑をかけました。
しかしそんなこと気にすることもないぐらいに、僕は部活に対して興味が薄れていっていました。

秋の大会でも結果が伸びるどころか、部内や他大の同期に差をつけられる始末。
正直に言って、こんな状況が楽しいはずがありません。
学生の競技ダンスは、その99%が初心者と言われ、スタートラインはほぼみんな同じなのです。
なのにこれだけの差がついてしまう。
普通に考えて当たり前の話です。
努力した者のほうが良い結果が出るのは当然です。
僕よりも周りの人間のほうが努力していたのだから勝てなくて当然なのです。

1年生の1月、レッスンを受けに行くことが許可されました。
プロの先生のレッスンです。
やる気を失っている僕にとってはあまり興味のない話ではありましたが、部内の同期はみんな行くと言っていたので、しぶしぶ僕もついて行くことに。

プロの先生の元は複数訪れました。
色々な先生方とお会いし、ダンスの奥深さを改めて知ることができました。
ここで素晴らしい出会いがありました。
僕が今も師事する先生との出会いです。
具体的な言葉にはし難いのですが、ピンとくるものがありました。
僕が実際に習いに行くのはもう少し先の話になるのですが、今回は割愛させていただきます。

さて、1年生最後の大会がやってきました。
3月に行われたこの大会では、1年生のみの新人戦で、1種目決勝まで上がることができました。
めちゃくちゃ嬉しかったです。
というのも、この大会に向けて僕は本気で練習していたから。
パートーナーの子が練習できない日でもホールに行き、基礎トレーニングから躍り込みまでやれることはやっていました。

そして、念願叶って決勝まで残れたのです。
新人戦4種あるうちの1種目だけではありましたが、非常に嬉しかったです。
ここから僕の心に火がつきました。

今までの僕を知っている人であれば、みんなが目を疑うほどに練習に明け暮れました。
その甲斐あってか、まず体重が半年足らずの内に10kgほど落ちました。
身体にもだんだんキレが生まれ始めました。

そんなこんなで気づけば大学4年の引退までしっかりダンスに打ち込んでいました。
入学前の自分では考えられないほど、最後までやり切ることができました。
人生の中で、ここまで長く何かを続けたことはありませんでした。
今思えば、今までは自分の意思で何かをやりたいと思って始めたことはなかったかもしれません。
小学生の時のサッカーや中学生の時の剣道は友達に誘われて始め、水泳も親の勧め(強制的)で始めたものでした。

このとき理解しました。
他人きっかけでスタートしたものは長続きしにくいということに。
大学4年が終わろうとしている時期に気づくなんて、少し遅すぎたような気もしますが、それでもこの時に気づけてよかったと今でも思います。

就職から逃げて大学院へ進学

さて、そんなこんなで大学生が終わろうとしていますが、時期としては4年生の1月ごろです。
この時の僕は進路が決まっていたのでしょうか?
いいえ、残念ながらこのときはまだはっきりとは決まっていませんでした。
というのも、3年生、4年生の時の就職活動を怠って部活ばかりに精を出していた結果、自分の望むような就職先を得ることができなかったのです。

僕は悩みました。
辛くも得ることのできた内定先へ就職するのか、よりよい就職先を探すための時間を作るのか、必死に考えました。

そして選んだ選択肢は、大学院へ進学するということ。
本当に逃げでしかありませんでした。
大学入学時に逃げることはやめようと決めたにも関わらず、逃げる選択肢をとりました。

しかし、他に進学を選んだ理由もありました。
それは、僕の専攻の修士課程において、ある教授が専攻主任になることが予定されていたためです。
僕はこの教授のもとで学びたいと、学部生時代からずっと考えていました。
僕の周りから進学するものはいません。
そもそも、偏差値の高いところではなかったので、みんな勉強することに対して意欲はなかったのです。
それに加え、目指す専攻の修士課程の評判はすこぶる悪かったのです。
「進学する意味はない」「時間とお金がもったいないだけだ」
友人たちからは当然のように止められました。
しかし、それでも僕は進学することに決めました。
新しいことに挑戦する方を選んだのです。
結果として、就職からは逃げることになってしまいましたが、学びを深めるため、自分の思いに正直になることを大切にし、進学を決意しました。

進学して大海を知った蛙

無事入試にも合格し、2019年4月から大学院生になることができました。
入学式当日、そこには同い年の学生はいませんでした。
正確には、僕の専攻にはいなかったということです。
では、僕の進んだ専攻には誰がいたのか?

それは、社会人院生のみなさんでした。
いずれも会社で部長や副部長などの肩書きを持つ方ばかりで、僕は恐縮しっぱなしでした。
社会人院生のみなさんは、全員で5名いました。
当然みなさん現場で何十年も働かれてきた方ばかりなので、貫禄が違いました。

講義を受けていく中や、休憩時間に雑談などをしているときにも感じましたが、やはり経験と知識量が学生上がりの僕とは全く違うのです。
僕がいくら学部で経営学を学んでいたとしても、社会人はそれらを現場で経験してきているわけです。
はっきり言って厚みが違うのです。
みなさんは口を揃えて、「初学者だから」と言われていたので、僕は遅れをとることもなく並んでいけるのではないかと思っていましたが、甘かったです。
井の中の蛙が大海を知った瞬間でした。

その後の僕は、社会人組に負けじと勉強を頑張るようになるかといえばそうではなく、この時やっていたバイトで稼ぐことの楽しさを感じ、そちらに夢中になっていました。
ですので、僕は結局勉強はそこそこに修士論文を書き終え、修士課程を修了しました。
幸いにも、社会人院生の一人に声をかけていただき、その方のいる会社に入社しました。

就職先で社会の現実を知る

僕は入社し、事務職をすることになりました。
そこで社会の現実を思い知ることになります。

それは、子どもおじさんがいっぱいいるということです。
どういうことかというと、自分で仕事に責任を負わず、管理者や環境のせいにしている人がほとんどの会社だったのです。

僕は事務部門に配属されましたが、最初に言われたことは驚愕です。

「何を教えたらいいのか分からない」

こう言われたのです。
新人、それも新卒の人間が入社してくるにも関わらず、仕事内容すら曖昧になっていたのです。
それもそのはず、管理者から事務部の方に僕の入社情報が伝わったのが1月終わり頃だったというのです。
事務部はそれまで2人でまわしており、日々の業務でてんてこ舞いな2人は、新人のことまで気を回せていなかったということです。
入社した瞬間から絶望でした。

その後なんとか仕事を教わりつつ僕の社会人生活が始まりました。
そんな僕もこの会社で働き始めて3年が経過しようとしています。
もちろん不満もありますが、なんだかんだ楽しく働けているとは感じています。

ここまで比較的順調に働くことができ、徐々に社内でも評判が上がり始めた頃から、他部署の先輩社員から相談などを受けることが増えてきました。
主には仕事の進め方だったり、社内の人間関係のことでした。
しかしそれは次第に愚痴に変わっていき、気づけば僕は社内の人の痰壺のような状態になっていました。

定時で仕事が終わり、帰ろうとしたところを誰かに捕まり1〜2時間愚痴を聞くことは当たり前になっていました。
過去最も長かった時で、17〜23時半の6時間半です。立ちっぱなしで。
これはさすがにしんどかったなと思います。

このように、色々な人から愚痴や相談事を引き受けているうちに、僕の社内での立ち位置が自然と定まっていくとともに、信頼をおかれるようになりました。

ここまでの人生で僕が感じていること

僕の人生の中心にあったのは、やはり人間関係だと思います。
僕は小学生時代にいじめを受けたことが原因で心を閉ざし、それ以後人と深く関わるのは避けるようになりました。
しかし、高校や大学で多くの人と出会い、その人たちの人間味に触れ、人間とは人なくしては生きていけないということを悟りました。
人と育む愛情や時折表れる衝突・憎悪など、多くの感情を経験するからこそ僕達は成長してくることができます。

僕は幸運にも人に恵まれました。
子どもの時にいじめこそ受けたものの、その後の人生で幸せな出会いがたくさんありました。
人と関わるのは怖いことも多いと思います。
嫌な人はどこにでもいるのでしかたないと思います。
嫌な人からは逃げるも立ち向かうもありです。
立ち向かう時は上手に立ち回れるだけの武器を持ちましょう。

このブログでは、理想とする自分になれないと悩む方が自分だけの武器を持てるような記事を書いていきたいと思います。
気まぐれな更新にはなると思いますが、あなたの人生に必要な部分だけ取り入れ、豊かな人生を目指していただければと思います。